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〈まず、息〉
レスピランは「呼吸する」との意味だが、つまりそれは「生きるlことに他ならない。
現在、若い音楽家の生き方は「生業としての定立の難しさを措けば」 一見、多様が許されているように思われる。しかしそれは、やってみればやれることの選択が種々可能であることに過ぎず、それと、一人の音楽家がどのように生さねばならないかとはちがうことであろう。
レスピラン同人は1950年代後半以降の生れである。彼らのなかに流れている筈のグローバルな音楽の生きた歴史は、はたしてなになのか。それは彼らがそこにぶつかり、それを打破し、あるいは救うべき確かなものなのかどうか。
そうであるならばそうすることにより、そうでないならば彼らは、そこにぶつかり、それを打破し、あるいは救うべき「自ら」を、まず見出さねばなるまい。そして、私が想い、信ずるのは後者としての彼らの若々しい姿である。むしろ、そうして初めて、彼らにとって、ぶつかり打破し救うべき確かなものが歴史のなかからも立ち現われるだろう。演奏家と作曲家が相集い、現代の創造と再創造の場とすることの意味はそこにこそあろう。
呼吸、つまり「息」は、文字通り「自らの、自からなる心」である。アール・レスピランが同人一人一人の息を合わせ、息づく場でありつづけることを願う。(作曲家 三善 晃)
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その昔バッハがあの荘厳で偉大なシャコンヌを作曲した時、一つの小さなウァイオリンが念頭にあっただろうか。それとも、ヴァイオリン演奏の限りない可能性を知っての創造であったのか。ベートーベンはあのくだらないヴァイオリンの事など、考えずに、結局はウァイオリンレパートリーの中て一番美しい、限りなく崇高なコンチェルトを書き上げた。又、ブラームスはうるさいヴァイオリニスト、ヨアヒムの助言を受け入れていれば、あの偉大なコンチェルトは生まれていないと思う。
作曲家は何にとらわれる事なく、自由に自分のその演奏楽器に対するインスピレーションを持って作品の創造を試みるべきで、演奏家に比べ、作曲家の拙ない楽器演奏の知識で作曲しても、拙ない作品に終るのみである。
演奏家はその作曲された作品を如何に、生かし、その作曲家の想像していた音と精神に到達し、又、引き上げる曲さえ出来ねばならない。
「アール・レスピラン」本当に此のクループの目的に適切な言葉であり、又、それに相応しい呼吸した、生き生きした芸術の創造に向ってほしい。
(ヴァイオリニスト 江藤 俊哉)
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4月25日の第1回演奏会での、アール・レスピランの演奏は、とにかく鮮烈なものだった。4曲の新作もさることながら、最後のべリオ『コソチェルティーノ』は、緩急自在の柔軟なプレイで、指揮者なしのアンサンブルの極限を垣間見た思いがする。
これくらいの規模の、すなわちオーケストラでもなく、カルテットでもない室内アンサンブルは、従来日本に多くあったとは言えない。少し考えて思いつくのは、アークやヴァン・ドリアン、ムジカ・プラクティカといったところだろうか。これらの団体はそれぞれ運営形態が異なっているようではあるが、毎回作曲家との密接なコンタクトをとりながら、殊に現代作品の演奏で、数々の成果をあげているのは、万人の知るところである。そういったいみでは、アール・レスピランも同様だろう。ただ、この団体が、他と多少趣きを異にする節があるとするならば、それは既に古典となった室内作品を彼等が好んで採りあげようとしている点かも知れない。先のべリオが良い例であるし、また当面の目標を、シェーンベルクの『室内交響曲』の演奏に置いているとも聴く。別に日本の演奏会でのレパートリーの偏向を嘆いてみても始まらないけれど、せいぜいマーラーどまりのその短い射程の原因は、ひとつには演奏団体の未熟にあったろう。この20世紀初頭からの暗黒のレパートリーを、アール・レスピランが如何なるヴィルトゥオジティでもって解決してくれるかが、実に楽しみと言える。
そう、彼等のねらいは、新しいヴィルトゥオジティだとも聴く。20世紀全体を、従来のように第2次大戦で区切ることなく、一つの大きな流れとして、現在から再び捉えなおしてみること、そして技術批判の時代に、その技術自体の新しいアルケオロジーを展開すること、それが作曲家をも含む彼等の本意なのかも知れない。そして、それをどう作曲の現場で具体化していくのか、今アール・レスビランへの興味は尽きない。 (音楽学者 長木 誠司)
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次の世紀に向けて−アール・レスピラン讃−
アール・レスピランは、近年の若い音楽家の活動の中にあって、ひときわ異彩を放つ足の地に付いたグループである。5年前の発足時、演奏家と作曲家が一体となって新しい室内楽の創造を目指す団体を結成すると聞いて、私は心から快哉を叫んだ。ユニークな発想(実は本来当たり前のことかもしれないのだが)に大きな期待を抱くと共に、室内楽を通してこれからの音楽家の在り方を考えようという本来的な姿勢に、新しい世代の出発を見たからであった。
もちろん反面、権威主義の横行するこの日本的風土にあって、それが果してどのように機能し進んで行くのか、いささかの危措がない訳でもなかった。しかし、その後の活動を見、また、折に触れ活動計画等を聞くにつけ、私の析憂は全くの徒労に過ぎないことが分ってきた。世の中の多くのグループが時と共にマンネリ化していく中にあって、レスピランは、今もなお出来たての新鮮さを保っている。
それを可能にしているのは、とりもなおさず、各メンバーの個人的技量の高さであろう。レスピランと付き合ったすべての人が先ず驚くところだ。だからこそ、次のステップへの思考が可能になり、会全体のコンセプトが確立する。年々メンバーも充実し、日本初の(おそらく)職業的室内オーケストラを目指して進みつつあるが、それは現代への大きな贈り物になるにちがいない。そこで、私の更なる期待は、決定的な名作誕生への夢となって膨らんで行く。真に演奏的であり、しかも、演奏家にとって新しい地平となり得る作品の創造−この未解決の20世紀末的命題に是非挑戦してもらいたい。それこそ、作曲家と演奏家の日常的切瑳琢磨の結果として手にする以外にないものであるが、その真剣勝負の場を、既にレスピランは着実に現実のものとしてきた。では、媒体である新作を−単に初演再演の材料としてではなく−どう捉えどう定着させていくのか。次の世紀へ向けての課題であり、大きな楽しみでもある。
(作曲家 野田輝行)
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アール・レスピランの「気」
アール・レスピランは、実に頼もしく、実におもしろく、実に密度の濃い、実に羨ましい存在だ。
「現代音楽」を極く自然にやってしまう。そういう時代になったのだと思わせてしまう。ぼくは今、ついついカギカッコに現代音楽ということばを入れてしまったが、アール・レスピランの連中には全くカギカッコの意識がない。
それどころか「クラシック」というカギカッコも不要だ。今回のプログラムを見て、ふつうならへエエと思うルクレールと八村の並列も、ことアール・レスピランにかかれば別に何ということもない。
何がマナ板に乗ってもアール・レスピラン色に生き生きと息づくのである。実に頼もしい。
昨秋、ぼくも役員の一人だった「サンクト・ペテルブルク音楽祭」にアール・レスピランの出演をお願いした。
正直なところ、かの国の作曲家の作品群中、首を傾げる曲もいくつかあったが、少くとも聴衆は、曲にではなく演奏を堪能してしまった。聴かせてしまうのだ。実におもしろい。
名手が揃っている。というだけのグループならあちこちに在る。サササと譜面通りにやってしまう、という職人には時折お目にかかる。が、アール・レスピランはどういう意志連係法か、実に充実した世界を、べリオだろうがヨハン・シュトラウスであろうが、楽し気に作り上げてしまう。実に密度が濃い。
だから、だからもう説明は要らない。実に羨しい。
羨しかったので、今ぼくは、ぼくが企画役である水戸芸術館のこの9月のコンサートに、アール・レスピランの一晩を考え、準備している。アール・レスピランのはなつ、屈託のない自由で若々しい「気」のようなものが、少しずつ「聴き手」の心をほぐす現場に立ち会っていたい、というのが正直なところだ。
(作曲家 池辺 晋一郎)
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アール・レスピランの存在価値
ひとりひとりがうまくて、あわせるのがうまいアンサンプルなら、いまでは日本ではめずらしいものではなくなった。小気味よくさわやかな演奏をしてくれるグループなどは、むしろ当り前のものとなっている。ききもしないでアール・レスピランのことを、同じような集団と考え、興味を示さない人が多いのも、そういったありきたりのグループが横行している、そのとばっちりであろう。
音楽にあっては、本ものと似たものとの間には、どうにも埋めようもないほど大きなへだたりがある。ところが、いまの日本には、その本ものには程遠い似たものに甘んじていながら(本人は本もののつもりでいる)、私は音楽家と信じこんでいるやからが、あきれるほど多い。
アール・レスピランは違う。メンバーのひとりひとりが、本ものを音楽を追い求め、かつそれを果たすことのできる人たちだからである。私がそれを実感したのは、昨秋、私がかかわっている日ソ音楽家協会の主催で、「サンクト=ぺテルブルグ音楽祭」を開催したときであった。それまでにも、それを感じてはいたのだが、旧レニングラードの作曲家たちの作品に立ち向かって、佳曲、難曲、駄曲の如何をとわず、そこに音楽を体感させる、ひきしまった演奏を展開してくれたのは、頭の下がる思い、ききながらその音楽にひきこまれていく自分を見いだして、私は音楽をきく喜びを深くかみしめていた。謝礼という謝礼も出せない貧乏協会の催しに、そんなことを全くお構いなしに、アール・レスピランは、すばらしい演奏を展開してくれたのであった。
この姿勢が続く限り、アール・レスピランは、やがて日本を代表する音楽団体として、自他ともに許す存在になるだろうし、またそれが刺激となり、あるいは指標となって、日本に本ものの音楽家、本もののアンサンプルが育ってくれることを、私は心待ちにしている。それが可能なアール・レスピランだ。
気鋭の作曲家も含んでのグループだけに、日本の作曲家の作品や現代を代表する他国の作品などに対するインタレストの強さ、積極的な姿勢も、このアール・レスピランならでは、の特性であろう。
(音楽学者 寺西春雄)
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すがすがしい演奏集団
アール・レスピランの演奏は今年二月、北とびあ・さくらホールでのコンサートに触れて、その達者な演奏をたっぷり楽しんだ記憶がまだ新しい。
この日はミヨー、イベール、フローラン・シュミットという、ふだんあまり演奏されない作曲家たち、それもめったに演奏されない作品ばかりが特集されていたのがとても珍らしかった。だいたい、これらフランス現代の新古典主義といわれる作品は、複調、ポリリズムを含んで演奏も容易でなく、音楽としても必ずしも、誰れにでもなじみやすいものではない。それであまり演奏されないのだろうが、アール・レスピランの面々は曲によって奏者を変え、配置を変えながらも、こうした曲をいとも楽々と、また安々と余裕のうちに弾き来たり、弾き去るといったところがあった。その演奏には力みがなく、ほどよく乾燥して、べとつきがなく、さらさらと涼風のように感覚に心地よく、知的な遊びのうちに、さわやかで、すがすがしいところに好感を抱いた。
とくによかったのがイベールの「10楽器のためのカプリッチョ」とシュミットの「ロカイユ趣味の組曲」。イベールは軽ろやかでユーモラスであり、シュミットの曲は私がこの作曲家に抱いていた一面的なイメージを破ってくれた。
「こんなにチャーミングな曲も書いていたのか!!」。以上のことは近ごろ手元に届けられたこの日のライブ・ディスクでも確認されたよろこびである。
ディスクといえば、ほんの数日前、アール・レスピラン同人の作曲家による四作品を収めたものも届いて、こっちのほうも、それぞれに楽しかった。そう、アール・レスピランは作曲家をも含んだ演奏集団であるところがユニークである。作曲家にとっては自作が容易に演奏されるのが好都合だろうし、演奏家のほうでも、そこから受ける刺激は小さくないはずである。いずれ!!傑作が生れれば初演の栄も担うことになるというものである。それに今夜のプログラムもまったく常套を脱している。
こういうコンサートに足を運ぶ聴衆の多からんことを!! (音楽評論家 中河 原理)
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《アール・レスピラン》中島健蔵賞受賞に寄せて
1985年、室内楽の新しい可能性を求めて発足した創作・演奏集団アール・レスピランは、現在、ほぼ室内オーケストラの形態を備え、バッハから現代までの諸作品の演奏、同人作曲家の新作の初演など、幅広く多彩な活動を精力的に展開している。
同人は若手演奏家と作曲家20名ほどだが、同世代の仲間たちの協同を得て、その活動は今や90年代の日本の音楽界に欠かせないものとなった。演奏会プログラムには常に思想と主張があり、その演奏は清新で高度な技術と誠実なアプローチを示して、まさに間然することがない。
よく、創作集団なのか、演奏集団なのか、と問われるらしいが、その区分けは彼らには二義的であろう。プログラムがバロックであれ、前衛であれ、書き下ろしの新作であれ、今この地平で、それらを新たな音として生みだし、その「現在」の意味を問う作業は、とりもなおさず今日のコンテクストを織り紡ぐことであり、そこに《創造》 という営みの原義が明らかにされる。少なくとも、そこに賭けられている、と言える。彼らの意識もそこにあろう。動詞の現在分詞「レスピラン」の原形「レスピーレ」は「呼吸する」という意味だが、そこから「はっきりと現れる」「生きている」という意味に敷桁されもする。まさに彼らの営みは、歴史と今日の脈絡を息づき、現し、生きるものと言ってもよいだろう。若い世代が、演奏と創作の一元的な表現を試みるこの連続体は貴重だ。
中島健蔵先生がいらっしゃれば、彼らの演奏会に足繁くお通いになったことであろう。そして「うん、面白い」と微笑まれるご様子が、目に浮かぶ。この受賞を祝い、今後もひたむきに、また、しなやかに活動を続けてくれることを願う。 (作曲家 三善 晃)
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アール・レスピラン〜深く長い息を吸って
アール・レスピランの演奏に初めて接してから、来年の春でもう10年が過ぎようとしている。正直なところ、こう長く活動が続くとは思っていなかった(……失礼)。というのも、定常的に運営がなされている中型アンサンブルというもの自体が、かつては皆無であったわけだし、普通のオーケストラよりも個々のプレーヤーの技量がはるかに高いレヴェルで問われるわけで、アール・レスピランのようにそうしたメンバーを贅沢に集めると、次第にスケジュールの調整がうまくいかなくなるだろうという気がして、現実的な意味での存立が難しかろうと考えた次第である。今日のように、いろいろなホールが中規模アンサンブルをレジデンツとして持つといったことは想像もできなかった。アール・レスピランの存立は、まさにそうしたアンサンブルの普及にも先鞭をつけ、ひな形にさえなったのではないだろうか。
もちろん開拓者の常で、難題は山積状態だったのだろうけれど、今日まで多くの演奏会をこなし、メンバーに含まれる作曲家たちの作品初演も多く手がけ、同時にバッハ以前のレパートリーにまで手を伸ばして、新鮮な演奏を繰り広げている彼らの今を見ていると、過去から現在までの音楽史を楽しみながら、その中で自由に呼吸しているように思われて仕方がない。それは、バッハとカーゲル、それに池田の作品を並べた今回同様、毎回のプログラム構成が端的に表わしているだろう。そんなアール・レスピランのますますの活躍に期待している。(
音楽学者 長木誠司)
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アール・レスピランのコンサートにはいつも、今回はどんなメニューなんだろう、という期待がつのる。いろいろな1品が懐石料理のように運ばれて、しかも全体がひとつのテーマを形作っている。といっても堅苦しいお懐石ではなく、老舗から独立した若い主人が気の張らない料押を楽しませてくれる、といった趣だ。
アール・レスピランのメンバーには、弦楽器や管楽器、打楽器奏者といった、あらゆる楽器の演奏家たちや、作曲家たちがそろっている。〕ひとりひとりが各々の活動をとおして腕を磨き、鍛えられて、アール・レスピランへと集まってくるのだ。 三重奏程度の小さな編成から15人近くにもなる大きな編成まで、あらゆる室内楽の奏者を自在に組み合わせられるのも、彼らがお互いに信頼できる仲間を引きつけあい、加えてここでさらに自分自身を鍛え上げていける、という確信があるからだろう。
彼ら、素材をうまく活かしているのが、一味ちがうプログラムである。テーマにそって古い時代の作品から現代作品まで、素材、味付け、彩り、盛り付けなどに工夫を凝らして運ばれてくる。なかなか聴く機会のない作品が取り上げられていることにも、彼らの自信のほどがうかがえる。その中でもさりげない自慢の1品は、メンバーの作曲家たちが作った作品だろう。アール・レスピランならではの味付けである。
おいしくて、しかも他で味わえないメニューに引きつけられるのは当然のこと。その場の雰囲気次第でコンサートの楽しみが左右されることも多いが、アール・レスピランに期待して足を運んできた人々が集まったコンサート会場の賑わいは、ごちそうをさらにおいしくしてくれるスパイスになっている。 さて、もう14回目となる今回の定期演奏会はイタリア懐石のフルコースである。今夜も残さずいただくことにしよう。
楠瀬 寿賀子(津田ホール・プロデューサー)
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アール・レスピラン讃
アール・レスピランとはもう長いお付き合いだが、懐かしい思い出のひとつに1994年の
秋、韓国ソウルの国際現代音楽祭「パン・ミュージック・フェスティバル」に一緒に参加したことがある。アール・レスピランはその前年に「現代音楽の優れた演奏と創作活動」を受賞理由に中島健蔵音楽賞に輝いていた。イギリスのロンドン・シンフォニエッタ、フランスのアンサンブル・アンテルコンタンボラン、ドイツのアンサンブル・モデルンなどと並ぶような、日本を代表する室内アンサンブルだと国内ではっきりと認知された時期だった。
「パン」は、故イサンユンの助言で1969年に設立したもので、理念としては当時、冷戦時代の東西の架け橋の役割を果たしていた「ワルシャワの秋」と同様に、開かれた音楽の場を目指す音楽祭として回数を重ねていた 欧米からの演奏家や演奏団体が出演し、自国の現代音楽を紹介することが多いのだが アール・レスピランはとくにこの時の公演で、ソウル出身てべルリンを本拠に国際的に活躍する若手作曲家陳銀淑の難曲「アクロスチション−ヴォルトシュピュール」の韓国初演を見事におこなった。日韓の架け橋の役割を果たしたばかりか 東アジアの現代音楽の新鮮さを作曲演奏合わせて広くアピールしたのであったアール・レスピランのイメージはわたくしの場合、こうした現代音楽界で彼らが築いてきた数々の功績から形作られているのだが 先に挙げた欧米のアンサンブルと大きく異なるのは アール・レスピランは現代音楽プロパーの団体ではないということであろう。
むしろ1600年代からはじまる器楽アンサンブルの歴史と伝統に立って現代を捉えるその
展望の広さと表現の幅を持っていることがアール・レスピランの最大の特徴であり、魅力だと思う。
今回の新世紀企画は、まさにそのような歴史的展望をもったプログラムで、1600年代から各100年の初めに書かれ、後の音楽に影響を及ぼした件品が並び、さらにメンバーの池田哲美と鈴木輝昭の新作初演がある高関健指揮による最小人員によるベートーヴェンの交響曲第一番といい、嬉しくなるほど聴きものが並んでいる。
アール・レスピランの新世紀でのますますの活躍が予測される内容といえよう。石田一志(音楽評論家)
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アール・レスピランの活躍については以前から承知していた。メンバーの中には個人的に親しくしている人もいる。しかし、これまでは共演の機会にはなかなか恵まれなかった。その最大の理由はこの団体が、演奏において基本的に指揮者を必要としないからである。
機会は2年前に訪れた。紀尾井ホールが大阪のいずみホール、名古屋のしらかわホールと連携して、毎年2人の作曲家に室内オーケストラのための新作を委嘱し、各ホールが独自にプログラムを組み演奏する、という企画を立ち上げた。このような優れた企画が経済的な理由によりわずか3年間で頓挫してしまったのは実に残念であったが、紀尾井での演奏にはアール・レスピランが選ばれ私が指揮者として参加することになった。
室内オーケストラでは、大編成に比べると、互いにより敏感で積極的な反応が求められる。さらに現代作品においては、多様な表現に対する探求心が欠かせない。新しいスコアを初めて音にする時、これはかなり興奮する瞬間であるが、作曲家の要求にできる限り応えようとするアール・レスピランの献身的な姿勢には、正直頭が下がる思いがした。時には困難を伴うこの仕事を彼らは嬉々としてやり遂げるのである。はかにも私たちはかなり広範囲のレパートリーを演奏したが、シェーンベルクの緻密過ぎるとも言えるオーケストレーションに対する集中力、ヴェーベルンの整理された音に対する鋭い感性、ケージの限定的ではあるが与えられた自由な場面に対する沸き上がるような創意工夫など、どれも印象に残るものである。もうひとつ特筆すべきは、演奏においても運営面においても、彼らの活動の基本に常にデモクラシーが存在することである。これは彼らが通常は指揮者を置かずに演奏している事と決して無関係ではないに違いない。
アール・レスピランは、その名前が示す通り、時代の移り変わりを確かめつつ、呼吸しながら新しい作品を紹介していく。一方では互いに息を合わせながらアンサンブルをさらに磨いていくという素晴らしい演奏家集団である。その活動の発展を心から応援すると同時に、これからも共演の機会が与えられるならばこれに優る喜びはないと私は考えている。高関 健(指揮者)
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僕は一応作曲家なのだが、アール・レスピランとのつきあいは、いつもプロデューサー、
企画者などの立場として、である。もちろんそれ以前に「聴き手として」のつきあいがあったからこそ、であるが…。
企画委員をしている水戸芸術館の僕のシリーズ《現代音楽を楽しもう》に出演願ったのは数年前。新しい音楽を(古典も、だが)実に生き生きと、楽しげに、そして呆れるほど自然にこなしてしまうこの名手たちの集団を、一人でも多くの音楽ファンに知ってほしいと考えたのだった。
さらに、4年前からの《いずみ・紀尾井・しらかわ》という3大都市における3ホールの
共同委嘱シリーズでも僕はアドヴァイザーを務めており、その立場で、アール・レスピランの毎年の見事な演奏に快哉を叫びつづけているのである。
名手たちと書いたが、実はこの集団に作曲家が加わっていることがすばらしい、と僕は
思う。作曲家は書斎で作品を書くのみでなく、常に「演奏」に向き合い、現場にいるべき
だし、企画や制作の精神を併せ持たなければいけない。これは僕のモットーでもあるのだが、だから、アール・レスピランとつき合うときの僕は、いわば鏡を見るような心になるのだろう。
今回のプログラムにも、この集団の精神が明確に具現されている。とりわけ、メンバー
鈴木輝昭君と、3ホール共同委嘱の権代敦彦君、ニ人の新作との出会いに、僕は尋常ではない楽しみを抱いているのである。
池辺 晋一郎 (作曲家)
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演奏という行為は総て創造的行為でなければならない、アール・レスピランの諸君はそう考えているでしょう。例えば大オーケストラの場合は、その経済的要因もあって基本的に古典作品を中心に演奏活動を行っています。そこにも勿論、創造性はあります。アール・レスピランのプログラムは同人作曲家の新作とともに彼らが今、時代に対して語りかけるべきと確信する古典作品で組まれています。
そこに私は、この演奏家と作曲家からなる表現集団が持つ独特な時代感覚と戦略を感じます。
その点こそが今晩の演奏会の聴き所なのです。
NHKは既にアール・レスピランに何回か出演していただいていると思います。さらに私たちは、昨年から「日本音楽コンクール」の作曲部門本選会の演奏をこの団体にお願いしています。コンクールというのは何が出てくるか分からないような世界なのですが、この集団にかかると瞬く間に作品が内蔵する世界が浮かび上がってきます。作曲者が考えていたよりもはるかに良かった、というところまで行ってしまいます。そこでは非凡な解釈力と演奏能力が必要と思われるのですが、この点に、1985年の結成以来この集団が培っていた時代を捉えてゆく意欲の真骨頂があります。
私のような放送プロデューサーも社会を意識する立場は、アール・レスピランのような集団と同じです。時代、世界、社会とどのように関わり、どのように表現するか。もっとも私の方はマスコミですから軸足はおのずと大衆に語りかけてゆく部分にありますが。
音楽的表現が新たな創造性をもって社会に関わってゆくことが難しい時代がずっと続いています。芸術行為そのものが、へたをすると「おわらい」と似たような尺度でおもしろいかどうかが云々されかねません。これは私たちマスコミにも責任があるのですが。例えば建築家なら、社会の経済活動からの要請で創造的行為を行えます。
しかし、音楽的行為に対してはそのような要請は期待できないというのが現状でしょう。
問題は新たな創造がない社会というのは知性が枯れてしまった社会であるということです。過去の遺産に頼り自分たちの時代に何も生み出すことの出来なかった社会、そういう時代で終わりたくない。アール・レスピランの活動を見ていますと この集団のそうした思いがひしひしと伝わってきます。
斉藤 茂(NHK音楽・伝統芸能番組部)
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アール・レスピランのコンサートでいつも感心するのは、確かな演奏技術や、現代作品においてもなお明らかに溢れ出る音楽性と共に、演奏会における選曲のユニークさです。結成以来の定期演奏会の多くでは、レスピランの同人作曲家による新作や、最近では若手作曲家への委嘱作品と20世紀に書かれた海外の近現代作品が、バロック初期を含む古典の作品と共に並べられています。
それでいてこれはよくある「聴衆の多様な趣味に応じた」折衷型の選曲という訳では全くなく、注意深く選ばれた古典作品と現代作品の絶妙な組み合わせに、企画者の先鋭的な意図が感じられる、非常に冒険的なものばかりなのです。これは日本における他の現代音楽演奏集団であるアンサンブル・ノマドや東京シンフォニエッタにも、あるいはレスピランと同じく作曲家と演奏家の共同によって成立している後続のアンサンブル団体、コンテンポラリーαやヴィーヴォ、ボアなどにも見られない、アール・レスピラン独自のプログラミングといえます。そして私は音楽家として、また文化と芸術を愛する一人の人間として、その方針を断固支持したいのです。
何故なら、一つの芸術作品は、他の時代や文化に属する芸術と比較されることで、その様式とオリジナリティをより一層鮮やかに浮かび上がらせるからです。私達の時代の音楽と古典の作品の双方が、一つのステージで共に提示されることにより、単独に聴かれる時とは異なった聴かれ方をするようになります。私達人間は、何より他者を通して自己の姿を正しく見出すものなのです。
また、ここには時代を違える芸術の間の様々な差異を発見して楽しむことに終わらない、より根源的な興味と喜びをも見出すことも出来ます。各々の時代や文化に固有の思考様式や表現方法の彼方に、双方を超越した、人間の芸術表現におけるアーキタイプ(原型)を発見することです。
ブゾーニは「音楽は鳴り響く大気だ」という言葉を残し、私としてはそこに「聴覚を介して知覚認識される時間体験である」という定義も加えたいところですが、そうした根本においては現代もプレトリウスの生きた400年前も、人と音楽の関係に何ら変わりはありません。アール・レスピランが紡ぐ様々な時間が、これからも人間と芸術そして世界についての豊かな示唆に満ちたものであることを願ってやみません。
夏田 昌和 (作曲家)
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アール・レスピラン 22年の輝き
早いものである。アール・レスピランの結成以来、第1回演奏会が1986年4月25日だから、もう22年になろうとしている。「第22回定期演奏会〜シリーズ
新世紀への架け橋T」というタイトルもいかにもこのアンサンブルらしい。
アール・レスピランのプログラムの特徴は古典と現代、そして近年では共同委嘱初演作品という3本柱が基本であったし、今回もそうだ。そしてこのように現代作品、委嘱作品を含みながら22年も続けるのは、実は大変なことなのだ。
現代作品を中心としたアンサンブルは過去にもいくつかあった。「TOKKアンサンブル」「アンサンブル・ヴァンドリアン」「サウンドスペース・アーク」等々。これらのグループの内、ヴァンドリアンとアークは1983年に設立された「中島健蔵音楽賞」を受賞している。その時すでにTOKKアンサンブルは活動を休止していた。そして今、ヴァンドリアンもアークも活動はしていない。
アール・レスピランも1993年に中島健蔵音楽賞を受賞している。この時の選考委員には柴山南雄を委員長にして、石井眞木、岩城宏之(以上故人)、一柳慧、田中信昭、三善晃、諸井誠、湯浅譲二等、評論家に石田一志、上野一晃、故・武田明倫、船山隆および筆者が居た。自分で言うのもこそばゆいが、これだけの顔ぶれを揃えた賞はおそらく他になかったろう。アール・レスピランの活動はそれほど目ざましかった。何よりも演奏技術が群を抜いていたしプログラミングがよかった。それが今日まで存続を可能にしている理由でもあろう。
アール・レスピランのCDもきわめて質の高いものだ。すでに6枚ほど出されているが、いずれも日本の現代作品を中心としたもので、近年では金子仁美のスペクトル音楽を集めた「スペクトル・マターズ」や「細川俊夫作品集\」が高い評価を受けている
時代の先端を行く作品を演奏し続けることは、何時の時代にも困難なことだろう。今日は特にその観を強くしている。.そしてアール・レスピランの22年という歴史の重みは、このアンサンブルのヴィルトゥオシティによって、ますます輝きを増しているかに見える。
佐野 光司 (音楽学・音楽評論)
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